ラムスの生い立ち
1932年、ディーター・ラムスはドイツのウィスバーデンに生まれました。大工だった祖父に強い影響を受け、少年時代に大工仕事で賞を受けたこともあり、50年代初頭、復興さなかのドイツにおいて建築家を志すことになります。
洞察力に優れた友人の勧めで、ドイツの家電メーカーであるブラウン社に職を求めた結果、創業者の没後経営を引き継いでいたアーウィンとアーサー・ブラウンに採用されることになります。ラムスの仕事は、画期的な家電製品を発表しはじめていたこの会社のデザインをモダンなものにすることでした。
この時期のラムスは、バウハウスの理念を継承し、ハンス・グジェロ、フリッツ・アイヒラー、オトル・アイヒャーらが関わっていたウルム造形美術大学から多くの影響を受けています。
まもなく、ラムスはプロダクト・デザインの領域に関わるようになり、1956年には、はじめて透明アクリルのカバーを採用したことで有名なオーディオセット「SK4」を手がけます。そして、1965年から1995年までブラウン社のデザイン部門のチーフを務めました。
そして、自らが率いるデザイン・チームとともに、20世紀を代表する多数の画期的な家電製品、そして、いくつかの家具を生み出してきたのです。
1959年より、
ヴィツゥのために
デザイン
ブラウンに入社した最初の年、23歳のラムスが提案したインテリアのスケッチが残されています。
この大胆でモダンなプランの壁面には、直接レールを取りつけたウォールマウント式の収納システムの原型が描かれていました。
1959年、ラムスはアーウィン・ブラウンに尋ねました。「ニールス・ヴィツゥとオットー・ツァップのために家具をデザインしてもかまわないだろうか?」と。ブラウンの答えは自然と未来を見据えたものでした。「いいんじゃないか。きっと我々ブラウンのラジオのマーケットを広げる機会にもなるだろう。」
その1年後、ウォールマウント式の606シェルビング・システムが発売されました。
ラムスのブラウンとヴィツゥでの仕事は、1997年にラムスがブラウン社を引退するまで続きました。ラムスのキャリアは、最も優れたデザインは、社内のデザイン・チームでこそなしえるということを証明しているようです。
そして、今日もなお、ラムスはヴィツゥのための仕事を続けているのです。
ラムスの哲学
1976年、ニューヨークにおいて、ラムスは簡潔でありながら先見性に満ちたスピーチを行いました。
そのなかで、ラムスは「天然資源の不足が顕著なものとなり、それは回復不能である」と指摘しています。優れたデザインは、人間を理解することでしか生まれないと信じるラムスは、私たちを取り巻く環境について、デザイナーの、そして私たちの責任を問います。
「私たちが、深い考えももたずに、さまざまなガラクタを、自らの家に、住む都市に、そして国中に満ちあふれさせている今日の状況が、将来の世代に絶望的な思いを抱かせるのではないかと懸念するのです」。
それ以来ラムスは、「捨てつづける文明に終止符を打つこと」をはっきりと主張しつづけてきました。いままでのように私たちがものを捨てつづけて、どうやって限りある資源を使いながらこの地球で生きていけるというのか、よく考えてみるべきだ、と。
ディーター・ラムスの作品は、世界各地で、巡回展、あるいは常設展として展示されています。ラムスと妻・インゲボルグは自らの財団を設立し、彼らが大切にしているヴィジョンを広め、デザインを通じ私たちの生活がより意義深いものとなる活動をサポートしています。
ディーター・ラムス ヴィツゥのデザインをグッド・デザインの家
1971年に建てられた、ディーター・ラムスの自宅。次の世代の為に、保存されることとなりました。